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2020-04-02

伴走者・4

【伴走者・4】日本のブラインドマラソンとして初めてパラリンピックに出場したのは、1988年ソウルパラリンピックです。その時、T11選手の伴走者として初めてパラリンピックに帯同した方は、1952年ヘルシンキ五輪マラソン代表の山田敬蔵氏です。

当時のパラリンピックで実施された視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施ではなく、3クラスそれぞれの部門(男子のみ)にわかれて実施されていました。そのため、2000年シドニーパラリンピックまでは各部門に1名ずつ選手を派遣し、1996年アトランタパラリンピックにおいては、T11クラスで悲願の金メダルを獲得しました。

また、2000年シドニーパラリンピックまでの伴走者は、視覚障がい選手1名に対し、帯同する伴走者は1名でした。もちろん、当時もルール上は複数の伴走者が認められていましたが、諸事情により日本は視覚障がい選手1名に対し、伴走者も1名の体制で世界と戦っていたのです。

そのため、日本代表の視覚障がい選手の走力アップに伴い、その伴走者も市民ランナーから実業団選手(相当)の実力者が名を連ねるようになっていきました。ところが、2004年に入るとT11クラスの日本選手が、2時間37分43秒の世界新記録(当時)を達成し、単独伴走でのサポートが難しくなったのです。

2004年アテネパラリンピックは、世界新記録を達成したT11クラスの選手に対し、伴走者を初めて2名体制で挑み、見事に金メダルを獲得。また、同大会には、T11クラスに選手を3名エントリーし、金メダルと4位、5位に入賞しました。参考までに、4位と5位に入賞したT11選手の伴走者は従来どおり、それぞれ1名体制で戦いました。

また、この2004年アテネパラリンピックまでは国や各競技団体が主導する強化体制は無いに等しく、各選手がそれぞれ自費などで賄い、伴走者と共に合宿などを実施していた時代でした。

今の強化体制と比較すると、当時の取り組みは大きく見劣りしますが、逆に合宿をはじめ何をするにも視覚障がい選手と伴走者の2人きりが主流でした。そんなこともあってか、当時の視覚障がい選手もその伴走者も個性的な人が多かったようにも記憶しています。

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