Home > Archives > 2020-04-11

2020-04-11

伴走者・5

【伴走者・5】2008年北京パラリンピックはいろいろな意味で転換期でした。詳細については割愛しますが、視覚障がいマラソンの実施クラスが見直された大会でもありました。

具体的には、パラリンピックの視覚障がいマラソンにおいて実施されていた3クラスが、T12クラスのみの実施になったのが同大会からです。これにより、T13クラスの選手はパラリンピックのマラソンに出場することができなくなりました。

また、パラリンピックのルール上、障がいの軽い選手が重たいクラスに出場することはできませんが、その逆は問題ありません。したがって、T11クラスの選手がT12クラスの選手と競い合うことはルール上認められています。

つまり、パラリンピックの視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施となった結果、出場可能な選手はT12クラスとT11クラスに限定されることになったのです。更に、T12クラスはルール上、伴走者の有無を選択できるクラスなので、伴走者が必須のT11クラスの選手がT12クラスの選手と一緒に競い合う点も全く問題ありません。

当時のT12クラスで単独走が可能な選手の世界レベルは、既に2時間30分を突破する記録に到達していました。一方、日本のレベルは、2時間40分台後半の選手が主流で、実はT12クラスの単独走が可能な選手を育成できていない状況でした。

2008年北京パラリンピックの視覚障がいマラソンは3名の選手を派遣しました。その内、T12クラスの選手はたったの1名。あとの2選手はT11クラスの選手です。更に、3選手とも伴走者が必要な選手で、単独走が可能な選手は皆無でした。

結果は、16位、19位、21位と惨敗。1988年に初参加したソウルパラリンピック以来、初めて入賞もメダルも無い大会となったのです。もちろん、日の丸を背負って最後まで力走した選手と伴走者は本当に力を出し切ってくれました。

しかし、パラリンピックの進化や改革に日本の選手強化や選手発掘などが大きく遅れ、後手に回っていたのは事実です。また、選手が個々に伴走者と頑張ってきた個別体制からチームジャパンとして強化できる組織体制への移行が大きく出遅れたことが、最も大きな敗因でした。

Home > Archives > 2020-04-11

Search
Feeds

ページの先頭へ