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館山若潮マラソン

レースが練習?(下)

1995年1月29日(日)。その日の千葉県館山市は雲ひとつない見事な快晴。おまけに海岸沿いを走るこの大会にしては珍しく無風で、まさに絶好のマラソン日和でした。更に受付を済ませたところ、招待選手でもないのにゼッケンナンバーは、「1」です。(写真左/38k付近)

練習の一環としてこの大会に出場する私にとって、特に目標タイムや順位はなくただ淡々と、「17分30秒/5k(3分30秒/k)ペース」を刻んでいくことだけを考えていました。もちろんウォーミングアップ等は全く実施せず、スタート10分前までブルーシートの上に寝ていました(笑)。

10時00分にマラソンはスタート。直ぐに6名前後の先頭集団が形成され、私はその集団の一番後ろに付いて走っていましたが、集団のペースも狙いどおりです。5k通過は、17分34秒。少し足が詰まる感じで、「もう少し速いペースの方が楽かなぁ」と勝手に考えていたところ、若い選手がひとり飛び出しました。まさに願ったり叶ったりです。

直ぐに、その選手の後ろに付いて走り、10kまでの5kを16分46秒・・・この時点で先頭集団は二人に絞られました。更に15kまでの5kを16分35秒・・・20kまでの5kを16分32秒・・・と、今度は逆に私が予定していたペースより速く、練習の一環として走る域を超えそうです。

中間点を過ぎたあたりで一緒に走っていた若い選手が私に話しかけてきたので、走りながら少し会話を交わしました。彼は箱根駅伝常連H大学のK選手であることを知り、2時間23分台を目指していることを話してくれました。もちろんK選手も私が実業団選手でマラソンも走っていることを知ることになり、お互いの間にこれまでなかった緊張感が一瞬にして生まれたのは言うまでもありません。

私はK選手に、もう少しペースを落とすように話しましたが、当然のことながら全くその気はありません・・・。25kまでの5kも16分33秒・・・。「練習の一環と言うものの2時間23分台のタイムで負けると、周りの人から何と言われるか・・・」と、この時点で頭の中は勝負モードにかなり傾いています。更に肉体的には余裕があるのですが、「マラソンで学生ごときに負ける訳にもいかない」と、精神的な余裕は逆に無くなりつつあり27k付近で、はじめて私が前に出て揺さ振りました。

だが、K選手は喰らい付いてきます。一旦横に並び彼の顔を見ると、既に余裕は無い様子でしたが、「このまま最後まで一緒に行くと、ゴール前で負ける可能性がある」と、ここで完全に勝負モードにチェンジ。29k付近からはじまる急な上り坂で再度揺さ振ると、K選手は離れだし・・・そのまま独走でゴール。(2時間20分23秒/大会新)

設定していたゴールタイムより10分速い記録でしたが、翌日のダメージも特にありません。しかし、2時間20分の記録は、仕上段階に相当する速い刺激になったのはあきらかで、翌週から調子がどんどん上がり、自分自身で調子を抑えることが難しくなっていきました・・・。そして、ついに風邪をひきダウン。回復後も立て続けに風邪をぶり返し、3月下旬のマラソンまで3回も風邪でダウンすることになったのです。もちろん狙っていた3月のマラソンは・・・(涙)。

いかがだったでしょうか?上記のようなケースは、まれかもしれません。しかし、マラソンは動き続ける時間が数時間にも及び、自分自身では練習の一環として出場したつもりでも、様々な諸条件に大きく左右される可能性が高いことは紛れもない事実です。

そのためマラソン大会を練習の一環として出場する場合は、幾つかのケースを想定し、予め頭の中でシュミレーションしておくことはとても重要になります。もちろんレースを予測することは難しいことですが、そういったことを日頃から習慣化させておくことは、マラソン以外のレースでも必ず応用できるようになっていきます。

それでは皆様の快走を心より祈念致します。

おわり。

レースが練習?(上)

平成21年もスタートしましたが、各種マラソン大会が開催されてくるのは今週末あたりからでしょうか。皆さんの中にも最後の調整と緊張している方もいるのでは?

また、この1月のマラソンは3月や4月のマラソンを目指すための走りこみと位置付けている方も意外と多いのではないでしょうか。実際に私が指導している選手達の中にもそのようなパターンにしている人もいます。

さて今月25日(日)は、千葉県館山市で館山若潮マラソン大会が開催されます。少し手前味噌の話になり恐縮ですが、この大会のコースレコードであるフルマラソンの、「2時間20分23秒」は1995年に私がマークした記録です。かれこれ14年近く破られずに残っています。

実は毎年この大会が近づくと、その記録をマークした時の苦い経験を思いだすのです。当時の私は実業団選手でしたが、各種実業団駅伝大会や合宿以外は、地元千葉の君津や富津での個人練習がメインで、日々の練習計画も全て自分自身で立案していました。更に30k走や40k走も常にひとりで、給水を手伝ってくれたり、タイムを計ってくれる人もいません。どんな練習の時も常に単独走でした。

もちろん、1995年当時も全く同じ環境で、この年は3月のマラソンを目標にしていました。その3月のマラソンに向けても自分自身で練習計画を立案し、どこで40k走を実施するのかを決めました。本来であるなら、40k走は単独で淡々とペースを刻むパターンになるのですが、この時に限って同じ40kを走るなら、「館山若潮マラソン」を利用しようと考えたのです。

当時の館山若潮マラソンの優勝タイムは、2時間30分前後でした。それはちょうど当時の私が練習で走る40k走(3分30秒/k)と、ほぼ同じペースだったからです。つまり、大会を利用することで他人の力を借りて楽に走れる上、給水も確実に準備してくれると、安易に考えたのです。

ところが、それまで目標のマラソンを目指していく過程で、練習の一環としてマラソンの大会を走ったことはありません。また、そのような考え方をすることも全くありませんでした。と言うより、当時の私は1年間を通じて3月のマラソンを最初からしっかりと狙う練習を実施した経験がなく、練習計画を立案する上でも手探り状態だったのも事実です・・・。

次回は、その館山若潮マラソンレース中におこった精神的な葛藤や出来事を紹介していきます。

つづく。

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