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2009-01

大阪国際女子マラソン

最初に国際マラソンのサポート(コーチ)として選手に帯同すると、大会当日に必ず実施する大切な仕事があります。それは、各選手がレース中に補給するスペシャルドリンクの提出です。大阪国際女子マラソンの場合、大会当日の朝8時30分から9時30分の間に長居陸上競技場に提出します。

スタート時間は12時10分なので、選手自らが提出すると、競技場で相当な時間を待つことになります。それでも大きな陸上競技場を発着点とする大会なら競技場内で待機することも可能です。しかし、雨風をしのげる場所の少ない大会の場合、防寒対策等を考慮する必要が不可欠になります。実際に25日8時30分時点の長居陸上競技場は雪が降っていました。もしも、陸上競技場での待機が不可だった場合、スタートまでの時間を寒い雪の中で待機することになり、レースへの影響が懸念されます。

・・・と、これ以外でも様々なケースや雑務が想定できるので、選手の応援を兼ねたサポートは、一人でも多くの仲間にお願いしたいところです。もちろん、サポートする方が一足先にスペシャルドリンクも提出し、選手は後からゆっくりと自分のペースで競技場に到着できるようにします。

そして12時10分、号砲と共に選手達はそれぞれのペースでそれぞれの目標に向かってスタート。同時にサポート隊の珍道中スタートでもあります(笑)。

大阪国際女子マラソンは、JR大阪環状線や地下鉄等を駆使することで、ほとんどの通過ポイントでの応援が可能です。実際にはじめてこの大会をサポートした時、地元大阪の知人の後に付いてまわり、ほぼ全ての5k毎ポイントで声援を送ることができました。但し、ポイント地点と最寄駅間のダッシュ、分刻みで乗り継いでいく地下鉄、最後は走っている選手以上に私の方がバテてしまい、ゴールする選手に間に合わない・・・苦い経験をしました(涙)。

この経験からその後、応援もマラソン練習同様、欲を出し過ぎないことが重要?と、勝手に思い込み、今回はJR森ノ宮駅で下車し、15k地点と25k地点で確実に応援。更に間に合うなら30k地点も応援し、ゴール地点である長居陸上競技場に戻る作戦をとりました。

実際に国際マラソンを目の当りにすると、選手達の気迫と迫力に圧倒されるのと同時に、選手達の懸命な姿に感動して涙が出てきます。今回のレースも世界を目指す渋井選手達の先頭集団、自己の限界に挑戦する市民ランナー達の姿に心を打たれました・・・。そして、途切れ目のない沿道からの大声援。この中で走れる選手達を羨ましくも感じました。

また、ほとんどの大会で公式発表される気温や風力等については、実際に沿道で応援してみると、それ以上に厳しいコンディションの場合が多々あります。今回の大会も沿道に立つと公式発表以上に北よりの風をかなり強く感じ、ほとんどの地点で選手達にとっては冷たい向い風になっていたようです。

そんな厳しい道中を乗り越えゴール地点の長居陸上競技場に戻ってくる選手達は、精根尽きた身体と心に最後の力を振り絞ります。同時に動かなくなった手足を懸命に動かし、目の前にせまったゴールを目指します。その姿は誰もが持っている、生き抜こうとする本当の姿なのかもしれません・・・。そしてゴールした瞬間、どのランナー達もこれまでの苦難から解き放たれ、最高の笑顔をみせるのです・・・。

これから全国各地で開催される様々なマラソン大会でも数多くの感動シーンを必ず目の当りにします。それは私達の心に深い感動と勇気をもたらすことでしょう。

トレーニング計画・9

前回から引続きペース走についてです。

おさらいになりますが、水曜日のアフターファイブに実施する練習の条件として、1時間程度で終了する内容がひとつの目安と、話しをしました。この条件は、当然のことながらペース走にも当てはまり、走り続ける時間として30分から60分程度の間におさまる距離にすることが、最初のポイントとなります。もちろん走るスピードによりその距離も変動しますが、市民ランナーの皆様にとっては、概ね8kから15k程度が平日のペース走として無理なく継続していける距離ではないでしょうか。※私の経験も含みますが、10kから20k程度のペース走は、AT値を引上げるにも有効的と言われています。

また、至極当然のことですが、ペース走は正確なペース感覚を体得するためにも、正確な距離を正確なペースで走ることが基本となります。よって正確な距離表示のある公園や河川敷等で実施することは最低条件です。もちろん近所にある陸上競技場や学校のトラックを使用できれば理想的ですが・・・。いずれにしろ、この点だけは何とか工面し、こだわるようにしてほしいところです。※距離計等で自宅近くに正確な距離のわかるコースを自分で設定しても良い。

次にどんなペースで走れば良いのでしょうか?

速すぎると途中からペースダウン・・・、遅すぎるとレベルアップにつながらない・・・と、実はペース走の最も難しい点であり、まさに個人差が微妙に出てくるところでもあります。そこで目安として、マラソンの目標タイムから1k毎のペースを割出し、そのタイムを設定ペースにすることからスタートします(ハーフでも可)。

具体的には、4時間突破が目標の方なら「6分00秒/k」ペース・・・、3時間30分突破が目標の方なら「5分00秒/k」ペース・・・、サブスリー(3時間突破)が目標の方なら「4分15秒/k」ペース・・・と、なります。そして、その設定ペースを目安に最初は、8k前後の距離からはじめます。つまりその距離を時間換算すると、ほとんどの方が走行時間の目安である30分から60分程度にも相当するからです。

もちろん最初からペースを一定に保って走ることは、かなり難しいことです。しかし、設定ペースが各自のマラソンペースと遅めなので、何度か繰り返すと余裕も出てきて必ず慣れてきます・・・。

次回はもう少し詳しく考えていきます。

つづく。

レースが練習?(下)

1995年1月29日(日)。その日の千葉県館山市は雲ひとつない見事な快晴。おまけに海岸沿いを走るこの大会にしては珍しく無風で、まさに絶好のマラソン日和でした。更に受付を済ませたところ、招待選手でもないのにゼッケンナンバーは、「1」です。(写真左/38k付近)

練習の一環としてこの大会に出場する私にとって、特に目標タイムや順位はなくただ淡々と、「17分30秒/5k(3分30秒/k)ペース」を刻んでいくことだけを考えていました。もちろんウォーミングアップ等は全く実施せず、スタート10分前までブルーシートの上に寝ていました(笑)。

10時00分にマラソンはスタート。直ぐに6名前後の先頭集団が形成され、私はその集団の一番後ろに付いて走っていましたが、集団のペースも狙いどおりです。5k通過は、17分34秒。少し足が詰まる感じで、「もう少し速いペースの方が楽かなぁ」と勝手に考えていたところ、若い選手がひとり飛び出しました。まさに願ったり叶ったりです。

直ぐに、その選手の後ろに付いて走り、10kまでの5kを16分46秒・・・この時点で先頭集団は二人に絞られました。更に15kまでの5kを16分35秒・・・20kまでの5kを16分32秒・・・と、今度は逆に私が予定していたペースより速く、練習の一環として走る域を超えそうです。

中間点を過ぎたあたりで一緒に走っていた若い選手が私に話しかけてきたので、走りながら少し会話を交わしました。彼は箱根駅伝常連H大学のK選手であることを知り、2時間23分台を目指していることを話してくれました。もちろんK選手も私が実業団選手でマラソンも走っていることを知ることになり、お互いの間にこれまでなかった緊張感が一瞬にして生まれたのは言うまでもありません。

私はK選手に、もう少しペースを落とすように話しましたが、当然のことながら全くその気はありません・・・。25kまでの5kも16分33秒・・・。「練習の一環と言うものの2時間23分台のタイムで負けると、周りの人から何と言われるか・・・」と、この時点で頭の中は勝負モードにかなり傾いています。更に肉体的には余裕があるのですが、「マラソンで学生ごときに負ける訳にもいかない」と、精神的な余裕は逆に無くなりつつあり27k付近で、はじめて私が前に出て揺さ振りました。

だが、K選手は喰らい付いてきます。一旦横に並び彼の顔を見ると、既に余裕は無い様子でしたが、「このまま最後まで一緒に行くと、ゴール前で負ける可能性がある」と、ここで完全に勝負モードにチェンジ。29k付近からはじまる急な上り坂で再度揺さ振ると、K選手は離れだし・・・そのまま独走でゴール。(2時間20分23秒/大会新)

設定していたゴールタイムより10分速い記録でしたが、翌日のダメージも特にありません。しかし、2時間20分の記録は、仕上段階に相当する速い刺激になったのはあきらかで、翌週から調子がどんどん上がり、自分自身で調子を抑えることが難しくなっていきました・・・。そして、ついに風邪をひきダウン。回復後も立て続けに風邪をぶり返し、3月下旬のマラソンまで3回も風邪でダウンすることになったのです。もちろん狙っていた3月のマラソンは・・・(涙)。

いかがだったでしょうか?上記のようなケースは、まれかもしれません。しかし、マラソンは動き続ける時間が数時間にも及び、自分自身では練習の一環として出場したつもりでも、様々な諸条件に大きく左右される可能性が高いことは紛れもない事実です。

そのためマラソン大会を練習の一環として出場する場合は、幾つかのケースを想定し、予め頭の中でシュミレーションしておくことはとても重要になります。もちろんレースを予測することは難しいことですが、そういったことを日頃から習慣化させておくことは、マラソン以外のレースでも必ず応用できるようになっていきます。

それでは皆様の快走を心より祈念致します。

おわり。

レースが練習?(上)

平成21年もスタートしましたが、各種マラソン大会が開催されてくるのは今週末あたりからでしょうか。皆さんの中にも最後の調整と緊張している方もいるのでは?

また、この1月のマラソンは3月や4月のマラソンを目指すための走りこみと位置付けている方も意外と多いのではないでしょうか。実際に私が指導している選手達の中にもそのようなパターンにしている人もいます。

さて今月25日(日)は、千葉県館山市で館山若潮マラソン大会が開催されます。少し手前味噌の話になり恐縮ですが、この大会のコースレコードであるフルマラソンの、「2時間20分23秒」は1995年に私がマークした記録です。かれこれ14年近く破られずに残っています。

実は毎年この大会が近づくと、その記録をマークした時の苦い経験を思いだすのです。当時の私は実業団選手でしたが、各種実業団駅伝大会や合宿以外は、地元千葉の君津や富津での個人練習がメインで、日々の練習計画も全て自分自身で立案していました。更に30k走や40k走も常にひとりで、給水を手伝ってくれたり、タイムを計ってくれる人もいません。どんな練習の時も常に単独走でした。

もちろん、1995年当時も全く同じ環境で、この年は3月のマラソンを目標にしていました。その3月のマラソンに向けても自分自身で練習計画を立案し、どこで40k走を実施するのかを決めました。本来であるなら、40k走は単独で淡々とペースを刻むパターンになるのですが、この時に限って同じ40kを走るなら、「館山若潮マラソン」を利用しようと考えたのです。

当時の館山若潮マラソンの優勝タイムは、2時間30分前後でした。それはちょうど当時の私が練習で走る40k走(3分30秒/k)と、ほぼ同じペースだったからです。つまり、大会を利用することで他人の力を借りて楽に走れる上、給水も確実に準備してくれると、安易に考えたのです。

ところが、それまで目標のマラソンを目指していく過程で、練習の一環としてマラソンの大会を走ったことはありません。また、そのような考え方をすることも全くありませんでした。と言うより、当時の私は1年間を通じて3月のマラソンを最初からしっかりと狙う練習を実施した経験がなく、練習計画を立案する上でも手探り状態だったのも事実です・・・。

次回は、その館山若潮マラソンレース中におこった精神的な葛藤や出来事を紹介していきます。

つづく。

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