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2020-04

伴走者・7

【伴走者・7】惨敗に終わった2008年北京パラリンピックでしたが、この2008年は2012年ロンドンパラリンピックを見据えた意味においては、重要な起点となった年でした。

また、当時は単独走が可能なT12選手の発掘と育成が強化の重要課題でした。そんな中、2008年時点においては既に数名の選手を強化指定選手に取り込むことはできていましたが、世界と勝負できるレベルには到達していません。しかし、北京パラリンピックにはその単独走が可能な2選手も派遣していました(トラック種目など)。

もちろん、世界と勝負できない選手の派遣については反対意見もありましたが、「北京の経験が2012年ロンドンパラリンピックに必ず活きる」との強い思いがありました。案の定、この2選手はその後、チームジャパンのエースとして世界でメダルを取れる選手に成長していきました。

そして、この2008年はもうひとつ大きな出会いがありました。それは、北京パラリンピック後の11月に京都で開催された福知山マラソン大会でした。「京都におもしろい(強い)選手がいる」との情報は以前から耳に入っており、その選手が福知山マラソン大会に出場することになったのです。

私は同大会役員でもあったので、その選手に直接会える機会を得ることができました。そして、大会の受付けで初めてお会いし、話しをしました。おとなしい印象の選手でしたが、内に秘めたものを強く感じました。

また、「目標はサブスリー」とのことでしたが、まさにそのとおりの走りを見せてくれました。実際に拝見したその走りは、全盲選手とは思えないバランスの取れたフォームに、「これは世界で勝負できる」と直感したのと同時に確信しました。

ゴール後、直ぐに強化指定選手にスカウトしたのは言うまでもありません。その選手は、2012年ロンドンパラリンピックに向け、期待通りに成長していった「T11クラスの和田伸也選手」だったのです。今ではチームジャパンの大黒柱のひとりとして、同クラスにおいては世界のトップを走っています。

伴走者・6

【伴走者・6】2008年北京パラリンピックは初の惨敗に終わりましたが、打ってきた布石は2012年ロンドンパラリンピックへと繋がっていきました。

まずは今現在も継続している強化拠点。ひとつは年間を通じてメインとなる千葉県富津市富津公園です。ご存知のとおり、同地は箱根駅伝を目指す学生選手や世界を目指す実業団選手たちが集う合宿地としても知られています。

実は、私もこの富津は地元であり、現役時代はここで走り込みをしていました。そんな縁もあって、まずはここで強化合宿を開始しました。富津公園内のコースは平坦で周回コースのため走り易く、視覚障がい選手たちも安全に走り込むことが可能です。そのため、直ぐに定着していきました。

また、移動するための交通手段も整っており、全国各地から移動しても当日のお昼前には富津入りが可能です。そのため、長期合宿はもちろん、1泊2日の短期合宿も対応できます。

視覚障がい選手は視覚に障がいがあるので、目からの情報が極端に少なくなります。つまり、トレーニング環境をかえたり、慣れない場所で走り込んでいくことを苦手とする選手がほとんどです。しかし、2008年北京パラリンピックに向け、この富津を強化拠点にしたことで、次の4年間も慣れ親しんだ富津で継続した走り込みが可能になりました。

更に視覚障がい選手からみた強化拠点の条件としては、移動するための交通手段はもちろん、滞在する現地の旅館やその料理など全てが噛み合わないと、安心と安全とはいえません。この点は視力のある一般ランナー以上にとてもシビアなのです。

もちろん、パラリンピックを目指す上で強化拠点が最重要な点はどの競技も同じですが、視覚障がいマラソンは2008年北京パラリンピックで初の惨敗となりました。しかし、最も重要なこの強化拠点を残すことができました。

また、強化拠点を継続していくことは、積み上げてきたトレーニング方法や実績などの貴重なデータをそのまま継承していけることにもなります。2012年ロンドンパラリンピックに向け、この点が最大の武器となりました。同時に、強化合宿に帯同してきた伴走者にとっても個々に蓄積してきたノウハウを活かせることになったのは、言うまでもありません。

伴走者・5

【伴走者・5】2008年北京パラリンピックはいろいろな意味で転換期でした。詳細については割愛しますが、視覚障がいマラソンの実施クラスが見直された大会でもありました。

具体的には、パラリンピックの視覚障がいマラソンにおいて実施されていた3クラスが、T12クラスのみの実施になったのが同大会からです。これにより、T13クラスの選手はパラリンピックのマラソンに出場することができなくなりました。

また、パラリンピックのルール上、障がいの軽い選手が重たいクラスに出場することはできませんが、その逆は問題ありません。したがって、T11クラスの選手がT12クラスの選手と競い合うことはルール上認められています。

つまり、パラリンピックの視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施となった結果、出場可能な選手はT12クラスとT11クラスに限定されることになったのです。更に、T12クラスはルール上、伴走者の有無を選択できるクラスなので、伴走者が必須のT11クラスの選手がT12クラスの選手と一緒に競い合う点も全く問題ありません。

当時のT12クラスで単独走が可能な選手の世界レベルは、既に2時間30分を突破する記録に到達していました。一方、日本のレベルは、2時間40分台後半の選手が主流で、実はT12クラスの単独走が可能な選手を育成できていない状況でした。

2008年北京パラリンピックの視覚障がいマラソンは3名の選手を派遣しました。その内、T12クラスの選手はたったの1名。あとの2選手はT11クラスの選手です。更に、3選手とも伴走者が必要な選手で、単独走が可能な選手は皆無でした。

結果は、16位、19位、21位と惨敗。1988年に初参加したソウルパラリンピック以来、初めて入賞もメダルも無い大会となったのです。もちろん、日の丸を背負って最後まで力走した選手と伴走者は本当に力を出し切ってくれました。

しかし、パラリンピックの進化や改革に日本の選手強化や選手発掘などが大きく遅れ、後手に回っていたのは事実です。また、選手が個々に伴走者と頑張ってきた個別体制からチームジャパンとして強化できる組織体制への移行が大きく出遅れたことが、最も大きな敗因でした。

伴走者・4

【伴走者・4】日本のブラインドマラソンとして初めてパラリンピックに出場したのは、1988年ソウルパラリンピックです。その時、T11選手の伴走者として初めてパラリンピックに帯同した方は、1952年ヘルシンキ五輪マラソン代表の山田敬蔵氏です。

当時のパラリンピックで実施された視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施ではなく、3クラスそれぞれの部門(男子のみ)にわかれて実施されていました。そのため、2000年シドニーパラリンピックまでは各部門に1名ずつ選手を派遣し、1996年アトランタパラリンピックにおいては、T11クラスで悲願の金メダルを獲得しました。

また、2000年シドニーパラリンピックまでの伴走者は、視覚障がい選手1名に対し、帯同する伴走者は1名でした。もちろん、当時もルール上は複数の伴走者が認められていましたが、諸事情により日本は視覚障がい選手1名に対し、伴走者も1名の体制で世界と戦っていたのです。

そのため、日本代表の視覚障がい選手の走力アップに伴い、その伴走者も市民ランナーから実業団選手(相当)の実力者が名を連ねるようになっていきました。ところが、2004年に入るとT11クラスの日本選手が、2時間37分43秒の世界新記録(当時)を達成し、単独伴走でのサポートが難しくなったのです。

2004年アテネパラリンピックは、世界新記録を達成したT11クラスの選手に対し、伴走者を初めて2名体制で挑み、見事に金メダルを獲得。また、同大会には、T11クラスに選手を3名エントリーし、金メダルと4位、5位に入賞しました。参考までに、4位と5位に入賞したT11選手の伴走者は従来どおり、それぞれ1名体制で戦いました。

また、この2004年アテネパラリンピックまでは国や各競技団体が主導する強化体制は無いに等しく、各選手がそれぞれ自費などで賄い、伴走者と共に合宿などを実施していた時代でした。

今の強化体制と比較すると、当時の取り組みは大きく見劣りしますが、逆に合宿をはじめ何をするにも視覚障がい選手と伴走者の2人きりが主流でした。そんなこともあってか、当時の視覚障がい選手もその伴走者も個性的な人が多かったようにも記憶しています。

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