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伴走者

再スタート

【再スタート】緊急事態宣言が解除されましたが、まだまだ収束とはいかない状況でしょうか。スポーツの世界もプロ野球など少しずつ活動を再開してきました。感染のリスクが「0」になることはありませんが、このまま何もしない訳にはいきません。

ブラインドマラソンも今月から強化合宿などを再開していきます。もちろん、選手毎に状況が違うので、全選手が足並みを揃えて再スタートとはいきませんが、幸い体調不良者は皆無だった点と、トレーニングもそれぞれができることを確実に継続できていた点は何よりでした。

また、延期となった各大会の新しい日程が決まりだしていますが、一方で中止を決断した大会も数多く、我々もこれから何を目標にトレーニングを積み上げていくかは不透明な状況でもあります。

過去に前例のない状況に陥っている以上、必要以上に心配しても答えを導き出すことは難しい。それなら前例のないことにも挑戦し、それを新たな実績にしていくことも必要なのかもしれません。

強化活動を再開でき、選手たちが元気に走れることに感謝しながら再スタートします。

伴走者・12

【伴走者・12】個人競技であるマラソンについても仲間と競い合い、切磋琢磨していくことで個々の力も上がっていきます。特に、伴走者が必要な視覚障がい選手については、常に2人がペアであり、単独走ではないのでなおさらです。

そのため、強化合宿を強化活動の軸にし、その回数や内容を充実していくことで、チームジャパンも力を培ってきました。つまり、個人競技であるマラソンもチームとして強化合宿を重ねていくことが要で、マラソンは団体競技であるともいえます。

チームジャパンを裏方としてがっちりと支えているのは伴走者です。ところが、強化合宿を充実させていくと、伴走者が必要な視覚障がい選手は、伴走者の理解を得ながら強化合宿を重ねていくことが逆に難しくなっていきます。

伴走者にも個々の事情があり、視覚障がい選手の都合どおりにはいかないからです。しかし、伴走者を伴わないと一歩も走ることができない視覚障がい選手にとっては死活問題です。この難題を解消し、チームジャパンを支えてくれたもうひとつの力(仲間)が学生選手です。

学生選手がはじめて強化合宿に協力してくれたのは、2005年ころになります。はじまりは、千葉県富津強化合宿での伴走協力を千葉県内の大学にお願いしたのが最初でした。そして、2008年ころからは箱根駅伝を目指す関東内の他大学にも伴走協力の輪が広がっていきました。

学生選手は若くて圧倒的な走力があり、伴走者としては理想的ですが、伴走経験のある学生選手はほとんどいません。ご協力いただける大学にお願いし、派遣される学生選手は右も左もわからない状態で強化合宿に参加します。

しかし、どの学生選手も箱根駅伝を目指しているだけあって、相手を観察する力は長けており、合宿初日の練習から伴走をそつなくこなします。また、強化合宿中は視覚障がい選手と相部屋になり、練習だけでなく食事や入浴などの日常生活サポートも全てお願いすることになりますが、どの学生選手も笑顔で進んで対応してくれます。

学生選手たちの様子を拝見していると、各大学での取り組みや指導は単に走ることだけでなく、日常生活など多岐にわたっていることがわかります。また、この強化合宿に参加したことがひとつのきっかけとなり、箱根駅伝出場を果たした学生選手もいました。

そして、学生選手と強化合宿を共にすることで、自身の競技に対する考え方や取組姿勢を見つめなおし、視覚障がい選手たちが意識改革を推し進める原動力になっているのが何よりです。

伴走者・11

【伴走者・11】視覚障がい選手の伴走者は、その選手の近くに在住しているランナーが担っているケースが一般的です。また、そのきっかけも人伝にお願いされ、伴走のことをよく知らないままはじめる人が多数です。

「明日からジョギングを」と思い立ったとき、「まずはトレーニング理論を」と考える人は多くないのと同じで、伴走をはじめるきっかけもこれに似ています。ところが、視覚障がい選手と初対面にもかかわらず、すぐにルールどおりの伴走ができるランナーもいます。

もちろん、最初は簡単なレクチャーを受けますが、まるでその視覚障がい選手と何年も一緒に走ってきたような伴走をするランナーもいます。特に、走力の高いランナーほど、伴走のコツをつかむのも長けています。

走力の高いランナーが偉いとか凄いという訳ではありませんが、相手のフォームやペースを見抜く観察力や、そのフォームやペースに同調できる表現力は、高いレベルで競技をしてきたランナーほど磨かれているのは間違いありません(本人が自覚しているかの有無は関係なく)。

2004年アテネパラリンピック以降、強化活動も本格的になってきたことは、既にこのブログにも記載してきました。特に、強化合宿についてはより重点を置きました。しかし、強化合宿の回数を増やし、1回ごとの合宿期間を長くしていくと、視覚障がい選手以上に帯同できる伴走者の確保が難しくなっていきました。

パラリンピックを目指す視覚障がい選手の伴走者に求められる最重要事項は走力です。しかし、伴走者にもそれぞれの家庭や仕事上の事情があり、パラリンピックを目指す強化活動に全てを傾注することはできません。

実はここにもうひとつの壁があります。パラリンピックを目指す視覚障がい選手の伴走者をしている多くの方は、自己犠牲をいとわない人格者でもあります。と、言いながら家庭や仕事を犠牲にすることへの限界はあります。

伴走者として高い走力を保ち、裏方(黒子)として視覚障がい選手に寄り添える人間力を備えていても、その伴走者の活動環境が整っていなければパラリンピックはもちろん、それを目指すための強化合宿に帯同(協力)することができません。

あるランナーが自分自身のマラソンを走るために休日を取得することと、自分が視覚障がい選手の伴走をするために長期休暇などを所属先から理解を得ることは、似ているようで全く違う次元の話になるからです。

伴走者・10

【伴走者・10】パラリンピックに向けた本格的な強化合宿を重ねていくと、選手たちの走力は記録や成績にあらわれ、手探りだったものが数値として「見える化」へと進化していきます。

特に、年間を通じて定期的に実施している強化合宿におけるトレーニングは、量も質もどんどん向上し、それを支えている伴走者に求められる走力も上がっていきます。そして、今も昔も伴走者に求められるのは、その両方に対応できる高い走力なのは変わりません。

また、いつの時代もトレーニング方法やその考え方は様々ですが、最終目標がマラソンである以上、トレーニングの量をある程度確保していく点も変わりません。そのため、伴走者に求められる重要な要素のひとつがトレーニング量をこなせるスタミナになります。

マラソントレーニングは主にスピード強化とスタミナ強化のふたつに分けることができますが、特にスタミナ強化は意外と効率的にはいかないと感じます(私の経験上)。そのため、強化合宿においてもスタミナ強化に割く時間は多くなり、年間を通じてもその継続と反復が軸となります。

特に、距離走やロングジョグ(LSD)などのスタミナ強化は根気が必要です。同時に、視覚障がい選手のランニングフォームやペースに合わせて長時間走り続ける伴走者の負担も相当なものになります。

伴走者の走力は視覚障がい選手より上なので、「ゆとりがあるから大丈夫」と判断して一緒にスタートします。ところが、いつもと違うランニングフォームやペースで長時間走ると、想像以上にスタミナを消耗したり、いつもと違うところに疲労を感じたりします。

その結果、強化合宿の前半で視覚障がい選手の伴走を継続していくことが困難な状況に陥ってしまうケースは意外と多いのです。また、厳しい見方をするなら「伴走者自身のスタミナ不足」がその原因とも言えます。

視覚障がい選手の走力が上がったか否かの目安は、単にマラソンなどのタイム向上で判断できます。そのため、伴走者は自分の走力とそのタイムを比較して伴走の可否を判断します。ところが、マラソントレーニング(強化合宿)を継続していける走力の有無について自らのスタミナを冷静に解析できる伴走者は少ないと感じます。

パラリンピックを目指す上で強化合宿は不可欠です。同時に、伴走者は強化合宿の初日から最終日までそのトレーニングを確実にサポートできる走力(特にスタミナ)が、視覚障がい選手にとっても不可欠になるのです。

伴走者・9

【伴走者・9】2012年8月、ロンドンパラリンピックが開幕しました。同大会は2000年シドニーパラリンピック大会以来、3大会ぶりに知的障がい選手が出場する競技も復活。20競技503種目に初出場の北朝鮮などを含む史上最多の164の国と地域から約4200名の選手が参加しました。

私自身も5回目のパラリンピック帯同となりましたが、本当に驚くことばかりの大会でした。特に、陸上競技場のスタンドが連日満員になっていたのは驚きと感動でした。また、単にスタンドが満員になっているだけでなく、観客の皆様がパラリンピック競技のルールや見どころなどもしっかりと把握していたのには、もっと驚きました。

まさに観客と選手が一体となり、躍動したパラリンピック選手たちの姿は私の知っているパラリンピックではなく、「オリンピックをも超えている」と感じました。

そのロンドンパラリンピックには、マラソンに3選手(2選手がトラックにも出場)、トラック種目に1名の視覚障がい選手を派遣しました。その内訳は、T12クラスの単独走選手が2名、T11クラスの選手が2名。そして、帯同した伴走者は5名でした。

また、どの大会もマラソンは最終日に実施されるので、マラソン代表選手は現地でじっくりと調整できる反面、大会の雰囲気などに惑わされず、自分自身のリズムをたんたんと押し通せる「強い心」が必須となります。

マラソン前にトラック種目の5000mに3選手が出場。T12クラスに2選手が出場し、ダブル入賞。圧巻は、T11クラスに出場した和田選手でした。伴走者と一心同体となったレース中の巧みな駆け引きの結果、見事に銅メダルを獲得!

最終日のマラソン(T12クラス)にはT12選手1名と、T11選手2名が出場。結果は、T12の岡村選手が4位、T11の和田選手が5位。更に、T11の高橋選手が7位と3選手そろって入賞を果たしました。もちろん、メダルを獲得できなかった点は悔しさも残りましたが、2008年北京大会の惨敗から見事な復活でした。

同大会に帯同した5名の伴走者は全員が元実業団選手。引退しているとは言え、高い走力を維持し、選手たちをけん引してくれました。そして、何よりもその伴走者たちがかつて名選手として培ってきた貴重な経験やノウハウが、選手たちの躍進につながったのが今大会でした。

※千葉県富津市富津公園は、引き続き駐車場や展望台への道などを封鎖しております。

伴走者・8

【伴走者・8】2012年ロンドンパラリンピックに向け、2009年から本格的な強化を始動しました。チームジャパンの核となるT12クラスの単独走選手を中心に千葉県富津市富津公園や長野県上田市菅平高原などを強化拠点に走り込んでいきました。

2008年の京都福知山マラソンで強化指定選手入りを果たしたT11クラスの和田選手も強化合宿に加わりました。ところが、和田選手の走力に見合った伴走者をどうするかの課題が浮上。いつの時代も伴走者の課題は最重要です。

2009年夏、長野県上田市菅平高原において強化合宿中のことです。それはまったくの偶然でした。いつもの距離走コースで選手たちに給水ボトルを手渡ししていたとき、1台の競技用自転車が横を通り過ぎ、すぐに急停車したのです。

ヘルメットとサングラスを外したその顔は間違いなくN氏でした。N氏は2004年アテネパラリンピックでT11選手のガイドとして帯同し、金メダル獲得に大きく貢献した伴走者です。

思わぬ場所での再会にお互い驚きあったのは言うまでもありません。N氏はデュアスロンの選手でもあったので、この菅平高原で偶然同じ日程で合宿をしていたのです。私は直感的に「和田選手の伴走者は見つかった!」と、心の中で強く思いました。

そのとき何を話したかの詳細は記憶に残っていませんが、和田選手のことを一方的に伝えたことは今でもはっきりと覚えています。もちろん、N氏は伴走者として再び協力してくれることを菅平高原で即決してくれました。

その後、和田選手の伴走者としてN氏も一緒にロンドンパラリンピックを目指すことになりました。そして、そこから和田選手の素質が一気に開花していったのは誰もが知るところです。

2008年北京パラリンピックが終わったとき、「この先はどうなるのか?」と不安な気持ちの方が強かったのは確かです。しかし、同大会を境にチームジャパンが再び上昇気流に乗ってきた手応えを感じてきたことも確かでした。

伴走者・7

【伴走者・7】惨敗に終わった2008年北京パラリンピックでしたが、この2008年は2012年ロンドンパラリンピックを見据えた意味においては、重要な起点となった年でした。

また、当時は単独走が可能なT12選手の発掘と育成が強化の重要課題でした。そんな中、2008年時点においては既に数名の選手を強化指定選手に取り込むことはできていましたが、世界と勝負できるレベルには到達していません。しかし、北京パラリンピックにはその単独走が可能な2選手も派遣していました(トラック種目など)。

もちろん、世界と勝負できない選手の派遣については反対意見もありましたが、「北京の経験が2012年ロンドンパラリンピックに必ず活きる」との強い思いがありました。案の定、この2選手はその後、チームジャパンのエースとして世界でメダルを取れる選手に成長していきました。

そして、この2008年はもうひとつ大きな出会いがありました。それは、北京パラリンピック後の11月に京都で開催された福知山マラソン大会でした。「京都におもしろい(強い)選手がいる」との情報は以前から耳に入っており、その選手が福知山マラソン大会に出場することになったのです。

私は同大会役員でもあったので、その選手に直接会える機会を得ることができました。そして、大会の受付けで初めてお会いし、話しをしました。おとなしい印象の選手でしたが、内に秘めたものを強く感じました。

また、「目標はサブスリー」とのことでしたが、まさにそのとおりの走りを見せてくれました。実際に拝見したその走りは、全盲選手とは思えないバランスの取れたフォームに、「これは世界で勝負できる」と直感したのと同時に確信しました。

ゴール後、直ぐに強化指定選手にスカウトしたのは言うまでもありません。その選手は、2012年ロンドンパラリンピックに向け、期待通りに成長していった「T11クラスの和田伸也選手」だったのです。今ではチームジャパンの大黒柱のひとりとして、同クラスにおいては世界のトップを走っています。

伴走者・6

【伴走者・6】2008年北京パラリンピックは初の惨敗に終わりましたが、打ってきた布石は2012年ロンドンパラリンピックへと繋がっていきました。

まずは今現在も継続している強化拠点。ひとつは年間を通じてメインとなる千葉県富津市富津公園です。ご存知のとおり、同地は箱根駅伝を目指す学生選手や世界を目指す実業団選手たちが集う合宿地としても知られています。

実は、私もこの富津は地元であり、現役時代はここで走り込みをしていました。そんな縁もあって、まずはここで強化合宿を開始しました。富津公園内のコースは平坦で周回コースのため走り易く、視覚障がい選手たちも安全に走り込むことが可能です。そのため、直ぐに定着していきました。

また、移動するための交通手段も整っており、全国各地から移動しても当日のお昼前には富津入りが可能です。そのため、長期合宿はもちろん、1泊2日の短期合宿も対応できます。

視覚障がい選手は視覚に障がいがあるので、目からの情報が極端に少なくなります。つまり、トレーニング環境をかえたり、慣れない場所で走り込んでいくことを苦手とする選手がほとんどです。しかし、2008年北京パラリンピックに向け、この富津を強化拠点にしたことで、次の4年間も慣れ親しんだ富津で継続した走り込みが可能になりました。

更に視覚障がい選手からみた強化拠点の条件としては、移動するための交通手段はもちろん、滞在する現地の旅館やその料理など全てが噛み合わないと、安心と安全とはいえません。この点は視力のある一般ランナー以上にとてもシビアなのです。

もちろん、パラリンピックを目指す上で強化拠点が最重要な点はどの競技も同じですが、視覚障がいマラソンは2008年北京パラリンピックで初の惨敗となりました。しかし、最も重要なこの強化拠点を残すことができました。

また、強化拠点を継続していくことは、積み上げてきたトレーニング方法や実績などの貴重なデータをそのまま継承していけることにもなります。2012年ロンドンパラリンピックに向け、この点が最大の武器となりました。同時に、強化合宿に帯同してきた伴走者にとっても個々に蓄積してきたノウハウを活かせることになったのは、言うまでもありません。

伴走者・5

【伴走者・5】2008年北京パラリンピックはいろいろな意味で転換期でした。詳細については割愛しますが、視覚障がいマラソンの実施クラスが見直された大会でもありました。

具体的には、パラリンピックの視覚障がいマラソンにおいて実施されていた3クラスが、T12クラスのみの実施になったのが同大会からです。これにより、T13クラスの選手はパラリンピックのマラソンに出場することができなくなりました。

また、パラリンピックのルール上、障がいの軽い選手が重たいクラスに出場することはできませんが、その逆は問題ありません。したがって、T11クラスの選手がT12クラスの選手と競い合うことはルール上認められています。

つまり、パラリンピックの視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施となった結果、出場可能な選手はT12クラスとT11クラスに限定されることになったのです。更に、T12クラスはルール上、伴走者の有無を選択できるクラスなので、伴走者が必須のT11クラスの選手がT12クラスの選手と一緒に競い合う点も全く問題ありません。

当時のT12クラスで単独走が可能な選手の世界レベルは、既に2時間30分を突破する記録に到達していました。一方、日本のレベルは、2時間40分台後半の選手が主流で、実はT12クラスの単独走が可能な選手を育成できていない状況でした。

2008年北京パラリンピックの視覚障がいマラソンは3名の選手を派遣しました。その内、T12クラスの選手はたったの1名。あとの2選手はT11クラスの選手です。更に、3選手とも伴走者が必要な選手で、単独走が可能な選手は皆無でした。

結果は、16位、19位、21位と惨敗。1988年に初参加したソウルパラリンピック以来、初めて入賞もメダルも無い大会となったのです。もちろん、日の丸を背負って最後まで力走した選手と伴走者は本当に力を出し切ってくれました。

しかし、パラリンピックの進化や改革に日本の選手強化や選手発掘などが大きく遅れ、後手に回っていたのは事実です。また、選手が個々に伴走者と頑張ってきた個別体制からチームジャパンとして強化できる組織体制への移行が大きく出遅れたことが、最も大きな敗因でした。

伴走者・4

【伴走者・4】日本のブラインドマラソンとして初めてパラリンピックに出場したのは、1988年ソウルパラリンピックです。その時、T11選手の伴走者として初めてパラリンピックに帯同した方は、1952年ヘルシンキ五輪マラソン代表の山田敬蔵氏です。

当時のパラリンピックで実施された視覚障がいマラソンは、T12クラスのみの実施ではなく、3クラスそれぞれの部門(男子のみ)にわかれて実施されていました。そのため、2000年シドニーパラリンピックまでは各部門に1名ずつ選手を派遣し、1996年アトランタパラリンピックにおいては、T11クラスで悲願の金メダルを獲得しました。

また、2000年シドニーパラリンピックまでの伴走者は、視覚障がい選手1名に対し、帯同する伴走者は1名でした。もちろん、当時もルール上は複数の伴走者が認められていましたが、諸事情により日本は視覚障がい選手1名に対し、伴走者も1名の体制で世界と戦っていたのです。

そのため、日本代表の視覚障がい選手の走力アップに伴い、その伴走者も市民ランナーから実業団選手(相当)の実力者が名を連ねるようになっていきました。ところが、2004年に入るとT11クラスの日本選手が、2時間37分43秒の世界新記録(当時)を達成し、単独伴走でのサポートが難しくなったのです。

2004年アテネパラリンピックは、世界新記録を達成したT11クラスの選手に対し、伴走者を初めて2名体制で挑み、見事に金メダルを獲得。また、同大会には、T11クラスに選手を3名エントリーし、金メダルと4位、5位に入賞しました。参考までに、4位と5位に入賞したT11選手の伴走者は従来どおり、それぞれ1名体制で戦いました。

また、この2004年アテネパラリンピックまでは国や各競技団体が主導する強化体制は無いに等しく、各選手がそれぞれ自費などで賄い、伴走者と共に合宿などを実施していた時代でした。

今の強化体制と比較すると、当時の取り組みは大きく見劣りしますが、逆に合宿をはじめ何をするにも視覚障がい選手と伴走者の2人きりが主流でした。そんなこともあってか、当時の視覚障がい選手もその伴走者も個性的な人が多かったようにも記憶しています。

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